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Wander Alone Like A Rhinoceros Horn

多忙な過去2年間が過ぎ、荷を降ろしてみると、見過ごしていた(あるいは故意に目を逸らしていた?)様々な事柄が眼に飛び込んでくる。そして、2年の月日は、諸々の事象を眺める私の眼そのものをも変容させていた。変容は、フィジカル、メタフィジカル、両面に及んでいる。回復された視力、衰えた肉体、削ぎ落とされた関心、獲得した視座。

過去に書いた文章を読み直すと、自分の変化と世界の変化が響き合うとともに軋み合い、交錯に眩暈を覚える。たとえば4年前にAJAXやFlashを題材にして書いた記事では、Webページがアプリになる可能性を考察していた。その可能性の一端は現在HTML5として実現している。ただし、HTML5には技術的に新しいことは何もなく、政治的理由により遅れてやってきた標準化にすぎない。また、同じく2006年に、今回と同じく過去を回顧している文章では、「無駄な部分を省いたコミュニケーションの需要は残るはずであり、むしろ参入障壁が十分に低ければシンプルなものがリッチなものを出し抜く可能性が十分にある」と書いており、こちらはTwitterとして顕在化してきた。しかし2006年の時点では、巨大なデータを合成してシンプルなインターフェイスに落とし込む処理を、自分では全くイメージできなかった。

8bit時代のビデオゲームは、表現能力を欠いたことにより洋の東西を問わない普遍性を獲得した。21世紀的なシンプルさの形式が普遍性を備えるには、世界中のユーザーの要求に即座に応答できるシステムを背後に組織化しなければならない。スマートフォン、クラウド... ハードウェアにいくつセンサーやプロセッサーが導入されようが、ソフトウェアデザインは本質的に自由だ。その広すぎる可能性の中から、有限の資源に応じた、核心を衝く着想が常に求められている。

この2年間は、専らWebブラウザーの発展に注目してきた。Jargon Fileにも載っている用語でwheel of reincarnation(輪廻)というものがある。ある処理に特化したプロセッサ(たとえばGPU)をCPUから分離した場合に、後年そのプロセッサの汎用計算性能が強化されるにつれ結局はCPU上でソフトウェア実装した方が効率的になり、再度CPUに吸収される...というサイクルが反復されることを指して輪廻と呼ぶ。Webブラウザーも、PCの本質的な機能であるということになれば、OSに統合されるのが望ましい。ところが、政治的事情からWindowsではそうはなっていない。iOSやAndroid、Chrome OSでは統合されているというのにWindowsではそうはなっていないというのは笑うしかない。どちらが望ましいのだろうか。一つだけ明らかなのは、私は自由なソフトウェアを支持するということである。つまり、iOSの現状が、競争を排除するようなものであるとすれば、私はそれを忌避するし、Apple社の製品は購入しない。私にとってのiPhoneとは、Androidの健全な発展を促す触媒でしかない。

Webブラウザーに関して、直近の動きで一番注目しているのはChromelessだ。XULがHTMLに溶け出している。自分が欲しかったコンセプトがそのままプロジェクトになっていて、嬉しかった。他に興味深かったのは、Beyond3Dで教えてもらった、EAによるPS3/Xbox360へのWebKit移植のベースに利用されていたOrigyn Web Browser。現在サイトが落ちているようなのでEA側のコードしか見ることは出来ない。EA側コードは、Paul Pedriana氏によるEASTL実装を含む(ドキュメントにはBoost.Intrusiveみたいなコンテナーが入っていると書かれているが見つからなかった)。

次に向けて、学ばなければならないことは山ほどある。